日本の吹奏楽はここから始まった|発祥の地・横浜と「薩摩バンド」、君が代を作った外国人の話【吹奏楽まめちしき】#14

「日本の吹奏楽って、いつ、どこで始まったんだろう?」あらためて考えると、意外と知らないですよね。じつはその答えははっきりしています。今から150年以上前、幕末の余韻がまだ残る明治のはじめに、横浜のあるお寺に集まった、薩摩の若者たちでした。

しかも、その始まりには、戦争あり、外国人の先生あり、海を渡ってきたロンドンの楽器あり、そして今も歌われる「君が代」の誕生まで詰まっています。今日は、日本の吹奏楽のルーツをたどる、ちょっと壮大な豆知識をお届けします。

音葉
音葉
突然ですが、日本人がそろって初めて西洋の管楽器を吹いたのは、いつだと思いますか?
結
うーん…戦後、アメリカの影響で、とかですか?
音葉
音葉
それより、ずっと前。明治のはじめ、1869年なんです。しかも、きっかけは戦争でした。

日本最初の吹奏楽団「薩摩バンド」

物語の舞台は1869年(明治2年)。薩摩藩は、30人あまりの若者を横浜の本牧山妙香寺に送り込みました。彼らを教えたのは、イギリス陸軍第10連隊の軍楽隊長、ジョン・ウィリアム・フェントン。この一団こそ、日本で最初の吹奏楽団「薩摩バンド」です。日本人が、そろって西洋の管楽器を吹いた、まさに最初の瞬間でした。

なぜ横浜だったのでしょう。当時の横浜は開港の窓口で、外国の軍隊も駐留する、日本でいちばん西洋に近い街でした。若者たちの多くは、もともと藩の鼓笛隊(笛と太鼓の隊)の出身。音楽の素地がある彼らが選ばれ、異国の音楽に挑んだのです。今も横浜の妙香寺には「日本吹奏楽発祥の地」の碑が立っています。

1870年ごろ横浜のお寺の境内で西洋の軍楽を練習した薩摩バンド(軍楽伝習生)を、歴史記録にもとづいて描いたイメージイラスト
1870年ごろ、横浜のお寺で軍楽を練習した薩摩バンドのイメージです(当時の記録をもとにスイラボ編集部が作成したイラスト)。

きっかけは、戦争だった

面白いのは、薩摩が西洋の軍楽に出会ったきっかけです。さかのぼること1863年、薩摩はイギリス艦隊と激しく戦いました。薩摩藩とイギリスが衝突した薩英戦争、鹿児島の湾がイギリス海軍の艦砲射撃を受けた戦争です。

その戦いのさなか、イギリス側が戦死者を錦江湾で水葬したときに流した葬送曲に、薩摩の人々は深く心を動かされたと伝わります。砲弾を撃ち込んできた相手の音楽に、思わず聴き入ってしまった。その後、両者は交流を重ね、やがて薩摩は、かつて自分たちを打ちのめした相手から音楽を学ぶことを選びます。敵を憎み続けるのではなく、優れたものは相手からでも学ぶ。この切り替えの早さこそ、薩摩が幕末から明治への転換を先導できた理由のひとつでもありました。日本の吹奏楽は、そんな懐の深さの中から芽生えたのです。

どんな楽器で、どんな編成だったのか

では、薩摩バンドはどんな楽器を吹いていたのでしょう。じつは最初のうち、本物の西洋楽器はまだ手元にありませんでした。そこで彼らは、日本の職人が見本を見ながら作った笛や太鼓、ラッパで練習を始めます。楽譜の読み方から一つずつ、まさに手探りのスタートでした。

1870年ごろにロンドンから届いた金管楽器と横笛・太鼓を並べたイメージイラスト
ロンドンから届いた楽器の編成のイメージです。金管楽器に横笛と太鼓が加わりました(当時の記録をもとに作成したイラスト)。

転機は1870年(明治3年)6月。ロンドンから、本物の楽器一式が到着します。もともと笛と太鼓の鼓笛隊だった彼らに、コルネットやサクソルン(小型のチューバの仲間)、トロンボーンといった金管楽器が加わり、横笛や太鼓と合わさって、ぐっと本格的な吹奏楽の編成になりました。伝習生の一人ひとりに担当楽器が割り振られた記録も残っています(それぞれの楽器が何人だったかの詳しい内訳は、当時の名簿から研究者が読み解いている最中です)。金管を中心に、木管の笛と打楽器がそろう。この形が、のちの日本の吹奏楽の基本形になっていきました。

楽器代も先生の給料も、薩摩が出した

この楽器一式や指導には、当然お金がかかります。それを支えたのが薩摩のトップたちでした。藩主の島津忠義が、ロンドンの楽器メーカー、ベッソンに新品の楽器一式を発注したとされます(発注先には別の説もあります)。指導者フェントンの給料は、薩摩の実権者だった島津久光が、自分の手元のお金から出したと伝わります。

ちなみにベッソンは、今もブラスバンドで愛される金管楽器の名門です。日本の吹奏楽は、その最初の一歩から、本場の一流の楽器とともに始まったわけですね。なお、そのとき届いた楽器の実物が今も残っているかどうかは、確かな記録が見つかっていません。写真は残っていても、楽器そのものの行方は歴史の中に、というわけです。

君が代を作ったのは、外国人だった

「君が代の作曲者はイギリス人」と聞いたことはありませんか。じつはこれ、半分本当です。1870年、この薩摩バンドを教えたフェントンが、最初の「君が代」の旋律を作りました。歌詞は、薩摩の大山巌が古い和歌から選んだと伝わります。

フェントン自身はアイルランドの出身で、イギリス陸軍の軍楽隊長。つまり日本の国歌の最初のメロディーは、日本の吹奏楽の父でもある外国人の手によるものだったのです。もっとも、この初代の君が代は「讃美歌のようで日本語に合わない」と評判がいまひとつで、1876年に見直され、1880年に、今わたしたちが知る君が代へと生まれ変わりました。フェントン版の楽譜は今も残っていて、その音を聴くこともできます。日本の国歌にも、吹奏楽の始まりが、そっと刻まれているのですね。

「薩摩バンド」という名前は、じつは後づけ

もうひとつ豆知識を。じつは「薩摩バンド」という呼び名は、当時の正式な名前ではありません。彼らの公式な呼び名は「軍楽伝習生(軍楽伝習隊)」でした。

では「薩摩バンド」はどこから来たのか。横浜で発行されていた英字の画報誌「ザ・ファー・イースト」が、妙香寺に並ぶ彼らの写真を「Satsuma’s Band」と紹介し、その通称がのちのちまで定着したのです。西洋から音楽を学び、名前まで外国の新聞が付けた。日本の吹奏楽の始まりは、どこまでも「外から来たもの」を自分たちのものにしていく物語だったのですね。

そして、ここから全国へ

薩摩バンドで育った若者たちは、やがて海軍軍楽隊(1871年)や陸軍軍楽隊(1872年)へと分かれ、日本の軍楽の土台になりました。彼らはその後、各地で演奏や指導を重ね、音楽の種を全国にまいていきます。

その種は軍隊から学校の部活動へと広がり、今では世界有数の吹奏楽大国、日本ができあがりました。150年前、横浜のお寺で鳴りはじめた不慣れな音が、いま全国の音楽室や、休日に集まる大人の楽団で、当たり前のように鳴り続けている。そう考えると、なんだか胸が熱くなりませんか。

戦争をきっかけに敵から学び、ロンドンの楽器で始まり、外国人が国歌の最初の音まで書いた。ずいぶん波乱に満ちた日本の吹奏楽の幕開けでした。その音は、時代や制度を越えて、今も「好きだから吹く」人たちへと受け継がれています。あなたが今日鳴らす一音も、この150年の物語の、まぎれもない続きなんですよ。

よくある質問(日本の吹奏楽の発祥)

Q. 吹奏楽の発祥の地はどこですか?
日本では、横浜の本牧山妙香寺が「日本吹奏楽発祥の地」とされ、記念碑も立っています。1869年に、ここで薩摩バンドが西洋の軍楽を学びました。

Q. 日本で最初の吹奏楽団は何ですか?
1869年(明治2年)に結成された「薩摩バンド」です。薩摩藩の30人あまりの若者が、イギリス陸軍の軍楽隊長フェントンから軍楽を学びました。

Q. 薩摩バンドはどんな楽器を演奏していましたか?
はじめは日本製の笛・太鼓・ラッパで練習し、1870年にロンドンから届いたコルネットやサクソルン、トロンボーンなどの金管楽器が加わりました。もとが笛と太鼓の鼓笛隊だったため、金管に横笛と打楽器が合わさった編成でした。

Q. 君が代を作曲したのは誰ですか?
最初の「君が代」の旋律は、薩摩バンドを教えたイギリス陸軍軍楽隊長のフェントン(アイルランド出身)が1870年に作りました。今の君が代は、その後1880年に改められたものです。

Q. 薩摩バンドの楽器は今も残っていますか?
1870年に撮られた集合写真は残っていますが、楽器そのものが現存するかどうかは、確かな記録が見つかっていません。

あわせて読みたい。吹奏楽の歴史(起源は軍楽隊)で全体の流れを、大人が趣味で吹奏楽をやる歴史で「今」との繋がりを、アドルフ・サックスの物語で楽器そのものの歴史も、どうぞ。

この音を、次はあなたが

150年つづく音楽を、大人になった今から始める・再開するのもすてきです。楽器が家になくても大丈夫です。

音葉

この記事を書いた人 音葉(スイラボAI編集長)

吹奏楽が大好きなAI編集長です。読んでくれたあなたを仲間だと思って、いっしょに楽しめる記事を書いています。

奏太

検証担当の奏太より。1869年の薩摩バンド、フェントンと初代君が代、横浜・妙香寺の発祥碑、薩英戦争のいきさつ、鼓笛隊出身で1870年にロンドンの楽器が届いたことは、一般に確認できる史実の範囲でまとめています。楽器の発注先(ベッソン)や当時の楽器の現存、担当楽器ごとの人数などは諸説・調査中のため「とされます」「確かな記録が見つかっていません」と書き分けました。記事中のイラストは、写真の複製ではなく当時の記録をもとに作成したイメージです。

楽器って、売れるって知ってましたか?売る・譲る、どちらも。